50歳で卵子提供へ 免疫ママ、科学を信じ夢を叶える
自己卵子での体外受精で幾度となく失敗を経験してきた彼女は諦めきれず、「たとえ自分の卵子じゃなかったとしても、自らの身体で10ヶ月間育み、自らが出産することには変わりない」と考え方の転換を決めました。こうして彼女は「卵子提供」での治療を続けることにしたのです。
2024-06-19

事の始まりを左右するのは意志であり、意志によって導かれる創造と実現の道のりの途中で、数日、数週、さらには数年という時の隙間を生み出してゆきます。その中でひたすら待ち続けていると、私たちはしばしば「自らが物事を創造し、引き起こしている」のではなく「物事が自分に降りかかってくる」と錯覚しがちです。
今回のストーリーの主人公・Alanaは、我が子がほしいという願いが芽生えてから最後実現にいたるまで、十数年という「時の隙間」を費やしました。この数十年間での治療とそれに伴う待ち時間はどれほど長く、また数十回にも及ぶ期待と失望は、どれほど辛かったことでしょうか。彼女は「縁があれば、必ず我が子は自分のもとへ来てくれる」と言いました。この「縁」という言葉の陰には、不安な心境とともに諦めたくない気持ちが伺えます。なかなか妊娠に至らず行き場のない悲しみを覚える中で、この「縁」という言葉は困難な状況にほのかな美しさを添え、傷ついた心を癒し、多くの夫婦が子どもを求める道のりで感じる言葉にできない苦労を和らげてくれるように感じました。
電子カルテから古びた紙のカルテまでひたすら遡り細かく読み込んだ後、私はAlanaの心身の強さに尊敬の念を抱かざるを得ませんでした。口先では縁にゆだねると言っていても、診察や治療に臨む姿勢はすこぶる積極的で、10年もの間一切の妥協や諦めも許しませんでした。赤ちゃんの誕生による幸せは、ただ運任せにAlanaにもたらされたのではありません。
生まれ育った家庭の景色が、憧れの家庭像となってゆく
大家族で育ったAlanaは、五人兄弟の二番目として生まれました。兄弟姉妹が大きくなって次々家を離れるにつれ、家の雰囲気も昔ほど賑やかではなくなってきた30歳の頃。彼女は友人の勧めにより、家を出て台北での自立を決断します。彼女は兄弟姉妹の中で一番最後に自立した子どもでした。
生まれ育った家庭の賑やかさや温かさは彼女の家庭観に深く影響していたため、彼女は早いうちから結婚して二人の子どもを持ちたいと強く考えていました。台北へ来て以降、彼女は職場で夫となる男性Ryanと出逢い、5〜6年交際します。素直な性格の彼女は「そろそろいい年だし…」と思い切ってRyanに結婚を持ちかけました。もしも断られたら勢いに任せて関係を断ち切り、一生独身でいようとまで考えていましたが、RyanもAlanaの心の美しさや優しさは何年もの付き合いを経て分かっていたため、二人の関係は恋人から夫婦へと変わりました。
「私の人生は順風満帆だわ。こんなに素敵な伴侶を見つけられて、仕事もプライベートも順調で、神様に感謝しかない。ただ、妊娠して子どもを産むということが、こんなに難しいことだなんて……。」
クリニックでの最後の治療を終えた日、彼女は医師からこう言われました。「40歳を超えると妊娠能力は急激に低下し、その確率はたった3%ほどだということをご存じでしょうか?」
すでに自己卵子で何回もの体外受精を試みてきた彼女は負けじと言い返しました。「だから頑張っているんです。試したこともないのになぜ無理だと決めつけるのですか?」すると医師は更にこう問いかけました。「卵子提供を考えたことはありますか?」
「卵子提供」が唯一の選択肢のように思えてくる中で、医師からのこの問いかけは、事態を一気に難しいものにしました。なぜなら、Alanaは自分が卵子提供に抵抗を感じていることをはっきりと自覚していたからです。
夫は「自己卵子を使った人工授精や体外受精は今まで8、9回ほど行ってきたけど、すべてうまくいかなかった。医者が言うように確率はおそらく本当に高くはないのだろう。いつもうまくいかずに涙で終わっている分、これ以上彼女が傷つくのを見るのは心が痛い。だから卵子提供も前向きに考えているよ。」それを聞いたAlanaは、仕事の訪問先で子ども達の笑い声と喜びであふれている光景を見ると、羨ましい気持ちが込み上げる。やはり自分の心には嘘が付けない、切望する気持ちは抑えられないと伝えました。2〜3年悩んだ結果、二人は卵子提供を受けてみようと決断し、2011年に当院を受診しました。当時Alanaはすでに50歳でした。
心の殻を打ち破り、科学を信じて再び勇気を振り絞る
「卵子提供」に対する心の殻を打ち破ることは、実際Alanaにとって容易ではありませんでした。自分のものではない卵子だと健康かどうか把握できない上に、なんとなく自分の子どもだと結びつけ難い部分があったからです。ですが思い返せば、今まで体外受精での乏しい成果や年齢的な余裕の無さ、また医学データの警告などは、すべて彼女の足取りを急かすものでした。
彼女は「たとえ自分の卵子じゃなかったとしても、自らの身体で10ヶ月間育み、自らが出産することには変わりない」と考え方の転換を決めました。こうして彼女は「卵子提供」での治療を続けることにしたのです。
これまでの経緯から学んだことを活かし、2012年に一回目のマッチングを経て移植を行うと、すぐに嬉しい結果となりました。しかし喜びも束の間、赤ちゃんは遺伝子の問題により発育不全となり、23週で成長がストップしてしまったのです。幾度とない診察と救命措置を施しましたが、医師の判断により流産という選択をするほかありませんでした。
休養期間を挟んで落ち着いた頃、再び2回の移植を行いましたがいずれも妊娠には至らず、1回目のマッチングで得た胚盤胞をすべて使い切ってしまいました。その後、2015年に行った2回目のマッチングでは9個の胚盤胞を得ることができ、そのうち3個が着床前スクリーニング(PGT-A/PGS)により正常胚と確認できたことは、二人にとってとても良い知らせでした。しかし、移植後無事に妊娠が確認できて順調だと思っていた矢先、10週目になって赤ちゃんの心拍が突然止まってしまい、その後2回目のマッチングで得た胚盤胞を移植するも、妊娠に至ることはできませんでした。
ずっと妻に付き添っていたRyanは「5〜6回も治療を繰り返しているのに毎回うまくいかない。彼女は泣きはらした後に『これで最後よ、もうやりたくない』って言うけれど、またしばらくすると『もう少し続けてみようと思う』って言うんだ」と私に言いました。加えてAlanaも「以前は成功しないとすごく落ち込んでいたけど、もう全て縁なんじゃないかって思うの。もし子どもと私に縁があるなら自然と出逢えるはずだし、縁がないならもう一回チャレンジすればいいのよ。だって胚盤胞はまだいっぱい残ってるんだから!」と言いました。
時の流れとともにますます発展を遂げる医学の進歩が、Alanaにとって大きな助けとなったことは言うまでもありません。2017年、コウノトリ生殖医療センターは当時最新だった子宮内膜着床能検査(ERA、移植に最適なタイミングを調べる)を取り入れました。ERAの検査結果に基づき行った2回の移植では妊娠に至らなかったため、ERAの再検査を行うと1回目の結果とは差があることが判明しました。経験から学び改善を重ね、次回の移植に向け努力を続けたことは成功の理由のひとつといえるでしょう。
また、体外受精の成功率を上げるため、2019年Alanaは改めて免疫に関する項目の免疫不妊に関する検査を受けました。すると彼女に何項目もの免疫異常が判明したため、免疫専門医のサポートを受けることでその後の移植がうまくいくよう、免疫科への受診を勧めました。
自らが決定権を持つ主となれ
治療中、Alanaは仕事先で世話好きな顧客に占いや子宝祈願へ誘われたことも少なくありませんでした。占い師に「年を重ねても子が授かる」と告げられたこともあれば、お寺の占いでは一生涯「子宝には恵まれない」と告げられたこともあります。「媽祖様からは『もう続けるな、今回まででいい』なんてお告げを受けたけど、でもそれ以降やっぱり2~3回は続けてしまったわ。」というエピソードもありました。
彼女はあちこちで占いに頼るのはあまり好きではなかったものの、顧客や友人の好意を断ることもできず、顧客のひとりから金のシャベル(台湾では子宝祈願の意味がある)を貰ったり、さらには、寺院のお札を移植前にお焚き上げに出した方がいい、などといったアドバイスを聞き入れて実行したこともあったそうです。効果があるかどうかはさておき、「まあみんな親切心でやってくれてるから、参考程度にとどめておくことにしたわ」と笑いながら言う彼女が印象的でした。
対談を通じて何より感じたのは、Alanaの決してへこたれない不屈の精神でした。彼女はこの精神力は職場で鍛えられたと言います。「業務や商談の際に壁にぶち当たることなんてしょっちゅうでしたし、たて続けに顧客から断られる状況も受け入れる必要がありました。そんな中で、自身の感情と心持ちを整えることがますます大切だと気付いたのです。」と彼女は言いました。また、卵子提供に踏み出せなかったり、治療が順調に進まず前を向けなくなってしまった方々に、こんな励ましの言葉を送りました。「最初は『卵子提供』という名前から受け入れ難いかもしれません。ですが実際移植が行われた瞬間、それはとても安心感があり、幸せな感覚でした。
赤ちゃんがお腹の中で日を追うごとに大きくなっていくにつれ、自分の卵子ではないということはすっかり忘れてしまいます。待ちに待った赤ちゃんが生まれた後は家に新たな音色が加わり、たくさんの活力を与えてくれました。我が子のあまりの可愛さに、すべての苦労には意味があったんだと思えるようになるはずです。
卵子提供を拒まず自分の信念を貫いたからこそ、今日の幸せがあるんだと思います。」当初は「借」り物の卵子だと心配していましたが、最終的にこの「借」は愛惜の「惜」へと変化を遂げました。AlanaとRyanは、この神秘的な生命(いのち)がもたらす喜びを、心をもって噛みしめている最中にいます。
コメント:
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治療とターニングポイント
(1) 2019-2020年の間、免疫に関する項目の基準値を採血検査で測り直した結果、Anti-phospholipid IgM、Anti-Cardiolipin IgM、Lupus anticoagulantの数値が基準値よりも高めであることが分かりました。そこで免疫専門の病院を紹介し、イムラン(Imuran)を服用して初期段階の免疫治療を始めました。その後も免疫科医師のアドバイスに従って移植前後にクレキサンとIVIGを投与したことで、9回目の移植に希望の灯をともすこととなりました。移植後のB-HCGの数値は72.18となりましたが、おそらく投薬量が不足していたためか、移植後14日目、妊娠指数の上昇を確認することはできませんでした。
(2) 免疫科医師による治療を受けた結果、移植は二回連続で浅い着床に終わったものの、Alanaはかえってより強い信念をもって再挑戦に臨み、同時に主治医もよりこまやかに彼女の治療歴と処方歴を見直すようになりました。11回目の治療に入る前、彼女は免疫科医師のアドバイスのもと、三ヶ月にわたりハイレベル免疫の薬剤―ベンリスタを数回に分けて投与しました。移植の数日前からはアリクストラの注射とIVIG(免疫グロブリン)ステロイド剤とヒュミラを組み合わせたことで、再び感動的な赤ちゃんの心拍が確認でき、遂には出産を迎えることができました。
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初めて当院を受診した彼女は、当時すでに50歳という年齢でした。これまで他院で何度も試みたものの成果が得られなかった経験から、自身が「子どもを授かる最後のチャンス」に挑んでいることを自覚していました。そのため、迷うことなく「卵子提供」の道を選び、自己卵子を用いた治療に伴う時間と費用の負担を軽減する決断をしたのです。
ただ、この卵子提供という道のりが10年以上続く険しい道で、しかも移植後も未着床、浅い着床、枯死卵、心拍停止、羊水破裂などの状況に見舞われることになると誰が予想できたでしょうか。彼女の不妊治療史を詳しく調べると、現在当院が定めた「免疫ママ」の定義にぴたりと当てはまります。トライ&エラーを繰り返し、ハイレベルな免疫治療を取り入れたことで、彼女は幸せの夜明けに立ち会うことができたのです。
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困難な治療が続く中、涙を拭いてはまた立ち上がる強さを彼女に授けたものとは、一体何だったのでしょうか。私は「自分」と「科学」を純粋に信じる力こそが、夫婦二人の心を強くしたのだと思います。そしてこの決して諦めない粘り強さはコウノトリの決して歩みを止めない向上心そのものです。体外受精の幾度とない失敗から真犯人を見つけ出し、胚の質や移植のタイミングを確認することのみならず、従来の考え方を打破し、移植後7日目には妊娠指数を検査するのと同時に、貴重な胚盤胞一つ一つを大事にすることができるよう、3回の採血確認(移植前後の免疫・血栓の指標を観察)を行うことで、重要なタイミングで「犯人」を探し出し処置を行っています。
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今回の患者さんにおける成功までの道のり
移植の歴史(2017.06~2020.08)
移植回数 六 七 八 九 十 十一 マッチング回数 二回目 三回目 移植個数 1 1 1 2 2 2 胚のグレード D6/5BC D6/5BC D5/5BA D5/5AB+5BB D5/5BB+5BB D5/5BB+5BB PGS nBx nBx Eu.Y Eu.X+nBx nBx nBx ERA x 144 144 144 121 121 抗血栓剤 x x x クレキサン クレキサン アリクストラ 免疫抑制剤 x x x 免疫グロブリン 免疫グロブリン ベンリスタ
ヒュミラ
免疫グロブリン
ステロイド剤妊娠指数 D14/<0.6 D15/<0.1 D17/<0.1 D8/72.18
D15/4.8D9/1.3
D14/<0.1D8/114
D15/2422移植結果 着床せず 着床せず 着床せず 浅い着床 浅い着床 帝王切開
男の子
*実際の治療は医師の診断のもと行っていきます。
本文は編集当時の治療状況、及びご提案です。